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編集長の熊坂仁美です。地域の資源循環を考察するシリーズ「日本循環紀行」。今回は、昭和40年代に行政、住民、メディアを巻き込んで起きた「東京ごみ戦争」を取り上げます。廃棄物管理のみならず、行政そのものの在り方に一石を投じ、転換点となったと言われるこの紛争は多くの示唆に富んでいます。ごみを巡っていったいどんな争いが起こったのでしょうか。そしてそのあと東京はどう変わったのでしょうか。舞台となった二つの地域を歩きレポートします。

東京のごみはどう処理をされてきたか

急激な経済成長の裏側で

前回で詳しく取り上げた江戸時代の下肥(糞尿)の循環。江戸の急激な人口増に対応するため、廃棄物をうまく利用する仕組みが構築されていきました。この循環は明治時代から大正時代半ばまで続きます。糞尿がその資源価値をなくしたあとは、現在と同様、処理が必要な廃棄物になりました。

そして日本は工業化へと進んでいき、廃棄物は循環することなくどんどん増えていきます。

図1は、明治34年から令和6年までの115年間の東京23区のごみの量の推移です。明治以来増加していたごみの量は、太平洋戦争によって一度リセットされます。戦時中のデータはありませんが、物資不足のためごみがほとんど出ない時代でした。

図1:23区のごみ量推移(東京二十三区清掃一部事務組合ホームページ掲載図をもとに著者作成)

戦後、経済活動が進むとともにごみは右肩上がりに増えていきます。経済成長と廃棄物が表裏一体であることがよくわかります。

そして昭和30年代に日本は高度経済成長期(肌色の部分)を迎えます。高度経済成長期とは、日本が年平均10%前後の高い経済成長率を記録した時代のことです。昭和39年には東京オリンピックが開催、昭和43年にはGDPがアメリカにつぐ世界第二位となり、戦後の焼け野原から一転、「経済大国」と言われるまでなりました。

生活が豊かになるにつれ、事業系のごみだけでなく家庭ごみも増えていきます。モノの使い捨てが当たり前になり、それまでなかった「粗大ごみ」や「プラスチック」といった新しいごみも激増していきました。

今回取り上げる「ごみ戦争」が起きたのは、グラフ中央の水色にあたる時期です。第一次オイルショックによって終了した高度経済成長期の最後、まるで断末魔のように起きたことがわかります。グラフには現れていませんが、この時期は有害廃棄物の問題もありました。工場からの排水や排気の垂れ流しにより、東京だけでなく日本各地で深刻な公害被害が発生したのです。

この頃、23区のごみ処理は東京都が行っていましたが(※1)、経済成長のスピードに廃棄物処理がとても追いつかず、様々な悪影響が起きていました。後で詳しく述べますが、そのひとつが大量のハエ発生による住民被害でした。

では、高度経済成長期には、東京はどんなごみ処理を行っていたのでしょうか。それをひもとく前に、現在の日本のごみ処理の特徴について、国際比較から見ていきたいと思います。

※1:現在23区のごみは特別地方公共団体である「東京二十三区清掃一部事務組合」が管轄

日本のごみ処理の特徴

ごみ処理の方法には、大きく分けると3つあります。①「埋め立て(ごみをそのまま土に埋める)」②「焼却(ごみを焼いて灰にする)」③「資源化(リサイクル、コンポストなど)」です。

図2は、先進国各国のごみ処理方法の比較を示しています。日本は非常に特徴的で、埋め立てはほぼなく、焼却処理が圧倒的に多い国であることがわかります。

図2:OECD各国のごみ処理方法比較
出典:OECD Environmental Statistics 2022-2023 データを基に著者作成

日本が焼却後行う「サーマルリサイクル(熱回収)」をOECD基準ではリサイクルにカウントされないことも影響していますが、日本のリサイクル率は他国と比べて非常に低いというのがもう一つの特徴です。たとえば同じく埋め立てが少ない環境大国ドイツでのリサイクル率は7割近い値を示しています。

参考記事→植栽ごみ(緑のごみ)を地域で資源循環する仕組み【環境都市フライブルグレポート】Vol.3

日本が目指す循環型社会を支えるごみの資源化は、実際にはまだそこまで進んでおらず、「燃やす処理」に依存する現状が見えてきます。

では、なぜこのような特徴が生まれたのでしょうか。その経緯を見ていきましょう。

埋め立てから焼却へ

図3は、1960年から今日までのごみ処理形態の推移を大まかに示したものです。転換点として、2つの出来事が考えられます。東京ごみ戦争と、「循環型社会形成基本法(循環基本法)」です。

長年主流だった埋め立ては、ごみ戦争をきっかけに減っていき、循環基本法の発布でほぼなくなったことがわかります。その後は資源化が増えますが、約2割で推移し今に至ります。そしてそれ以外のごみはほぼ焼却される、という日本独特の形になります。

図3:1960年〜2020年 ごみ処理形態の構成比の推移イメージ(Gemini3によるデータをもとに著者作成)

では、ごみ焼却後はどう処理されるのでしょうか。

焼却によってごみは20分の1になります。各区で焼却した灰は、一部セメントなどに再利用される場合もありますが、ほとんどは東京の最終処分場(江東区海の森)に持ち込まれて埋め立てられます。

しかし焼却施設が少なかった1960年代までは、生ごみも粗大ごみもそのままで投棄され、埋め立てられていました。

江戸以来「ごみは遠くに運んで捨てる」というやり方を行ってきた東京。東京ごみ戦争によって埋め立て処理の限界が露呈することなり、そのやり方が終わりを告げたのです。

東京ごみ戦争とは

東京中のごみ捨て場にされた江東区

ここで、東京ごみ戦争の経緯を説明したいと思います。

「ごみ戦争」というキャッチーな言葉は、昭和46年、当時の美濃部都知事により発せられました。「深刻化するごみ問題の徹底対策を進める」という宣言です。テレビなどで人気の大学教授だった美濃部知事がマスコミ受けを狙ったと言われていますが、出来事を見ていくと、清掃工場建設やごみ処理にともなう住民を巻き込んだ深刻な問題が次々に勃発し、東京都の舵取り役である知事が頭を抱えた状態であったことがわかります。

誤解を受けやすいのは、ごみ戦争には2つの舞台(「江東区」と「杉並区」)があり、その2つの区が衝突する場面もあったため、この両者の戦いというように受け取られがちです。それも一部ありますが、実際はそうではなく、都民を含む「東京都」と「激増するごみ」あるいは「行政」と「住民」との戦い、という意味で使われています。

では、江東区と杉並区にどんな問題があったのか見ていきましょう。

まず、大量のごみで一番被害を被ったのは江東区です。現在ではごみ収集処理は区ごとに行われていますが、当時は23区の実に「7割」のごみが江東区夢の島に集められていました。そのため、夢の島には都内各地から一日5000台ものごみ運搬車がやって来るという、想像を絶する状況が起きていました。

ごみには水分の多い生ごみが多く含まれていますので、汚汁が道路を汚し、江東区の住民は、悪臭、ハエのやネズミの発生、そして交通渋滞、交通事故にも悩まされていました。

昭和40年、夢の島でハエが異常発生し、南風に乗って3キロほど北にある住宅街、南砂町を襲いました。小学校の給食の牛乳に飛び込んでくるほどになり、伝染病の発生を危惧する保護者たちの訴えで授業を午前中で打ち切られたり、住宅では窓が開けられないなど、住民被害は深刻でした。これが4ヶ月続いたといいます。

対策として殺虫剤の空中散布を行いましたが、全く効果がなく、最終手段として自衛隊と消防隊が出動し、ごみの山に重油を撒いて焼き払う、その名も「夢の島焦土作戦」が行われました。まさに、巨大化したごみと人との戦いを象徴するような出来事でした。

画像引用:夢の島公園Webサイト https://www.yumenoshima.jp/park/history

これらの公害は、都民が排出したごみが未処理のまま江東区に集中して集められたことが原因であるのは明らかでした。

そもそも、なぜ江東区だけにごみが集まったのでしょうか。

「夢の島」が「ごみの島」へ

東京湾に面する江東区は江戸時代から埋め立てが行われ、拡大してきた地域です。1655年(明暦元年)日本で最初の公式のごみ捨て場となったのが深川の永代浦(現在の富岡八幡宮付近)でした。庶民から排出される生ごみや、火事によって発生した残土は自然に分解しごみが土壌を形成していったため、新田開発をすすめる幕府にとって一石二鳥だったのです。

その後も場所を変えながらも、江東区内でごみが処分されてきたという歴史的な経緯があり、以来、明治、大正、昭和を経て現在にまで続いています。

「14号埋め立て地」と呼ばれた夢の島は、実は最初からごみの島だったのではありません。戦前には、羽田より先に飛行場の候補地となっていた場所でした。戦争による物資不足でその計画が立ち消えたあとは「東京のハワイ」として海水浴場として利用されていました。「夢の島」というネーミングは、ごみのネガティブイメージを払拭するためにつけたのではなく、当初は都民の「夢」の場所、という意味が込められていたというのは、なんとも皮肉な話です。

しかし夢の島海水浴場は、たび重なる台風被害や財政難によりわずか3年で閉鎖され、その後7年間も放置されていました。そして高度経済成長期に入ろうとしている昭和32年、東京の新たなごみの埋め立て処分場として活用することになりました。

「ごみを海まで持って行って捨てる」というやり方は、江戸時代に深川の永代浦で行われていたことと本質的には変わりません。東京はそのやり方で400年を過ごしてきたことになりますが、今回ばかりは、その量が想定を遙かに超えるものでした。焼却炉(清掃工場)の建設計画がありましたが追いつかず、昭和41年の時点で、4年早く予測を超えるほどのごみの量となりました。そしてそのしわ寄せが、すべて江東区に行くのです。

当初、都内の清掃工場が完備する予定だった昭和45年まで埋め立て利用を了承していた江東区ですが、計画が遅れ、埋め立てがどんどん引き延ばされます。その間、現場ではごみによる公害、被害が広がる一方でした。

業を煮やした江東区議会は昭和46年、ついに声を上げます。「ごみ投棄反対対策委員会」を発足させ、区議会、住民が一体となった反対運動を起こします。ごみは排出した区で処分する「自区内処理の原則」「迷惑負担公平の原則」を訴えたのです。今では当たり前となっているこの原則は、これがきっかけで始まったのです。

実力阻止の際、実際に使用されたタスキ(「えこっくる江東」展示)

「江東区は東京の吹きだまりや、ごみ捨て場ではない」として立て看板や横断幕を掲示してPRするとともに、知事に対しても公開質問状を提出するという手段に出ます。さらに他の22区に対しても被害を訴え「自区内のごみは自区内で処理する原則に賛成してもらえるかどうか」を質問し、多くの区から「協力したい」という回答を得ました。

それまでの長い間、高度経済成長のひずみとも言える東京中のごみを押しつけられてきた江東区の怒りはいかばかりかと思います。しかしその不公平は報じられず、当時は環境問題に対しての意識も低く、現場視察などの教育機会もなかったため、都民がそこに目を向ける機会がほとんどなかったのです。

江東区のこのアクションはメディアに大きく取り上げられ、ようやくこれが大きな社会問題であることが認識されるようになりました。経済成長にばかり目を向けていた日本人に、環境意識が芽生えるひとつのきっかけとなったのです。

杉並区の戦いとその後

江東区、杉並区の清掃車を受け入れ拒否

区ごとに清掃工場を作るという東京都の計画がなかなか進まなかった理由は、迷惑施設建設には必ずつきまとう「ニンビー(NIMBYーNot In My Backyard=自分の庭ではやめて)」の問題がありました。「施設が必要なのはわかるが、自分の家の近くには建てるな」という心理。「住民エゴ」と言えるものです。

最も激しい抵抗を示したのが杉並区でした。建設予定地とされた高井戸地区の住民が反対期成同盟を作り、立て看板や見張り小屋を設置して都の現地調査の拒否するなど、東京都と激しい闘争が行われました。

「自区内処理の原則」として13区に清掃工場の建設が進められる中でも杉並区の抵抗は続き、杉並清掃工場の建設が遅れていました。

杉並清掃工場建設反対の様子(引用:杉並区ホームページ)

そこで江東区の怒りが再び爆発します。「東京都の約束不履行と杉並区の地域エゴは断じて許されない」として実力阻止という手段に出るのです。議員たちが夢の島の搬入口でトラック検問を行い、杉並区の車両は受け入れ拒否する、というものでした。そのため一時杉並区には収集されないごみが町にあふれるという事態になりました。

杉並区車両拒否の検問の様子(引用:東京二十三区清掃一部事務組合ホームページ)

この強烈な実力阻止はメディアで大きく報道され、「ごみ戦争」は終結に向かいます。

美濃部都知事による「東京ごみ戦争」宣言から3年。東京都と杉並区の争いは昭和49年に和解が成立、杉並清掃工場の建設が決定し、東京ごみ戦争は終わりました。杉並清掃工場の竣工までには、それから11年を待つことになります。

杉並区が強固に反対した理由

この経緯がメディアでさかんに報道されると、杉並区の行動を「住民エゴ」として非難する声が多くあったといいます。しかしその経緯を見てみると、杉並区の反対運動は、単なる住民エゴと言いきれないものがありました。

ここで注目したいのは、その地域の歴史的な特徴です。武蔵野地域にある杉並区は、江戸時代には近郊農地として発展し、豪農(地主)が存在しました。特に現場となった高井戸地区では、江戸時代から消防などの地域インフラ整備に地主が力を尽くしており、ひときわ地元愛が強いコミュニティだったと言えます。

杉並区の戦いが始まったのは、ごみ戦争宣言の5年前に遡ります。反対した理由は、周囲の環境への懸念だけでなく、住民感情や心理にひもづくと思われるいくつかの理由がありました。

一つは、杉並区清掃工場はほかに建設予定地があったにも関わらず、東京都がそれを取り消しせずに新しい予定地を決めたこと。

もう一つは、その候補地が、高井戸駅前の一等地であったことです。その土地は、地主たちが地域の発展のため、井の頭線の敷説の際に安く提供したという経緯がありました。その思惑とは違い、地域発展に直接結びつかない処理施設を建てることへの憤りでした。

地主の一人である内藤博孝さん(一般財団法人杉並正用記念財団理事)によれば、予定地には三笠宮殿下が幼少期に訪れた時によく遊んでいたという藤棚とハス池がある、由緒ある場所だったそうです。地主を含む住民にとって、土地への想いがつまった場所だったのです。

さらに問題は、東京都(当時は東知事)の通達の仕方でした。前触れもなくいきなり、それもチラシ一枚を配布する形での住民への通告でした。地主や住民は寝耳に水で、その一方的なやり方に「暴力都政」と抵抗しました。知事が替わり、住民との対話重視を掲げる美濃部都知事になっても、時に強権的な行動もあり、話し合いはうまく進みませんでした。

今では普通に行われているプロセスを経ずに進められた計画。もし、もっと地域に寄りそう形で清掃工場建設の準備が進められていたら、こんなにも激しい抵抗にはならなかったのかもしれません。ごみ戦争は、行政と地域とのコミュニケーションの重要性を示した事件でもありました。

ごみ戦争のレガシーを後世に伝える

そして昭和57年、ついに杉並清掃工場が完成します。海外から視察に来るほどの最新設備を備え、ごみ搬入専用の地下通路まで通し、周辺環境に最大限配慮した設備となりました。

京王井の頭線「高井戸駅」から徒歩3分。杉並清掃工場は、確かに駅前の好立地にありました。

周辺に遊歩道も有する杉並清掃工場

そしてこの清掃工場の中には、ごみ戦争に関する資料を展示した資料館「東京ごみ戦争みらい館」があります。清掃工場設置に至る経緯や当時の動画、当時の紛争を伝える新聞記事などのさまざまな資料を保存・展示する施設として、一般公開されています。

ごみ戦争みらい館(引用:https://www.union.tokyo23-seisou.lg.jp/shokuin/jinji/saiyo/setsumeikai020326suginami.html
展示の一部

そして、清掃工場の隣には、「高井戸市民センター」という立派な施設があります。

清掃工場の隣、複合施設「高井戸市民センター」

このセンターは、地域活動、交流、学習のための施設で、1階に温水プール、2階に図書室、3階に集会室・多目的室などを備え、高齢者活動支援センターも併設されています。住民のためのこの施設の建設も、ごみ戦争の和解事項のひとつ、いわば東京都から勝ち取った施設です。ごみ焼却の熱利用による温水プールは、1時間250円と格安で、多くの利用者で賑わっていました。1階にはカフェや誰もが気軽に利用できるフリースペースがあります。

杉並区で印象的なのは、ごみ戦争という、住民の痛みを伴った紛争を負の遺産と捉えるのではなく、レガシーとして後世に伝える持続可能な仕組みを作っていることです。その動きの中心となっているのが地主たちでした。地主団は、補償金の一部を拠出して「財団法人杉並正用記念財団」を設立。和解条項に沿って工場の操業が適切に運営されていること確認するために活動するほか、高井戸市民センター各施設の運営管理をしているのです。こういったところからも、杉並の地主や住民の「地域愛」を感じます。

2026年の「夢の島」を歩く

もうひとつの舞台、江東区の夢の島に行ってみました。

熱帯植物園、スポーツ競技場、公園、BBQなどの総合施設である夢の島は、東京メトロ、りんかい線、JR京葉線が乗り入れる「新木場」駅から徒歩5分と、非常にアクセスのいい場所です。

清掃車の搬入口では、休日でも多くの車両が行き来している。

この総合施設の隣には、日本最大級の清掃工場「新江東清掃工場」があります。ごみの焼却能力は一日あたり1800トン。これは一般的な清掃工場の3倍に当たります。ひときわ高い煙突が象徴的です。今も夢の島は東京のごみ処理の中心地なのです。

新江東清掃工場。隣接しているが、夢の島公園から直接入ることができない。

まずこの清掃工場を入り口だけでも確認したいと思って目指したのですが、Googleマップからも行き方がよくわからず、夢の島公園からも入ることができず、断念しました。園内地図も、隣にあるにもかかわらず、場所さえも表示されていないのです。

次に公園内のスポーツ施設、熱帯植物園、都立第五福竜丸展示館などを見学し、夢の島公園内をぐるっと回ってみました。

ごみ焼却熱を利用した「夢の島熱帯植物園」

歩いてみて驚くのはその敷地の広さ、そして立派さです。特にスポーツ施設は充実しており、「東京スポーツ文化館」では複数のアリーナやコート、温水プール、レストランもあり、宿泊もできるようになっています。屋外のフィールドもたくさんありました。これらも、杉並区同様、東京ごみ戦争によって江東区の住民が勝ち取ったものです。

東京スポーツ文化館「BumB(ぶんぶ)」

しかし少し残念なのは、ごみ戦争の爪痕を残すものがここではあまり見つけられなかったことです。清掃工場の熱利用で運営されている熱帯植物園にはその仕組みの説明はありましたが、かつてのごみ戦争についての説明はありませんでした。

夢の島を後にし、かつてハエの被害にあった南砂町の区民図書館へ向かいました。夢の島からは想像以上に離れており、ここまでハエの大群が飛来したことを考えると、いかに当時のごみの量がすごかったかが想像できます。

江東区が東京中のごみを引き受け、公害に苦しみ、戦ったごみ戦争。多くの教訓を残したこの重要な出来事について、施設だけでなくストーリーとして、できればこの夢の島で次の世代に語り継いでほしい、と勝手ながら思った次第です。

北側の「新砂地区」からみる夢の島。物流倉庫が建ち並ぶ新砂地区を超えて3キロほど歩くと、かつてハエ大量発生の被害にあった住宅街・南砂町がある。

日本の資源循環の見えない課題

今回、調査をしてみてわかったのは、ごみ戦争は資源循環のみならず、様々な意味での日本の転換点であったことです。戦後の焼け野原から立ち上がった私たちの先輩が頑張ったおかげで、日本は急速に発展しました。でもあまりに急すぎて、それを支える制度が追いつかなかった。そこで様々なハレーションが起きた、ということだったのだと思います。

そしてもうひとつ、今回の調査で気づいたことがありました。高度経済成長期の江東区へのごみの押しつけ。それは、東京へ電力を供給していた福島への、原発事故後の対応と構造的に似ているのではないか、ということです。そう、「不都合を弱い者に押しつける」という構造です。

私は福島市出身で、事故のあとUターンし12年間住んでいましたが、一向に進まない事後処理については憤りとあきらめがあります。

法律では「2045年3月までに福島県外で最終処分する」と定められているにもかかわらず、福島県内の除染作業で出た除染土ですら、フレコンバッグに入れられたまま、大熊町・双葉町の「中間貯蔵施設」に集められています。その量は東京ドーム約11杯分にもなります。

具体的に受け入れてくれる自治体は現状ほぼなく、実証事業すら難航しているのです。

実はもっと深刻な問題があります。原発事故によって、現場で膨大な廃棄物が出たことは想像できますが、実際はどれぐらいあるのでしょうか。福島第一原子力発電所(いちえふ)をよく知る関係者から話しを聞くことができました。

「デブリ(溶け落ちた核燃料)は合わせて約880トンあると推定されています。それだけに注目されがちですが、他、普通なら資源化できる廃棄物もたくさんあります。車両は3000台、タンクは1000基、ほかに金属、コンクリート類。これらは汚染のため資源にすることができません。全ての廃棄物が持ち出せず、今もいちえふの中にあります」

焼却も資源化も埋め立てもできず、ずっと閉じ込められたままの大量の廃棄物。いったいあと何年、そのままに置かれるのでしょうか。

まもなく15年目の3.11がやってきます。あのとき江東区が訴えた「迷惑負担公平の原則」は、福島に関しては全く守られず、そしてこれからも守られる様子は見えていません。

<参考文献>
東京都清掃局総務部総務課(2000)『東京都清掃事業百年史』
稲村光郎(2016)「廃棄物アーカイブシリーズ 第8回:東京ゴミ戦争の時代」廃棄物資源循環学会誌Vol.27
東京都江東区(1991)『江東の昭和史』
東京都教育職員組合江東支部編『江東の歴史』
江東区政策経営部広報広聴課『江東区のあゆみ』
『清掃一組だより』 平成29年12月26日 第43号

東京二十三区清掃一部事務組合
区制施行90周年記念ドキュメンタリー「東京ごみ戦争」
内藤博孝さんが語る「東京ごみ戦争」
杉並清掃工場建設をめぐる「東京ゴミ戦争」
杉並区ホームページ
夢の島公園

<訪れた場所>
杉並区清掃工場「東京ごみ戦争みらい館」(杉並区)
高井戸市民センター(杉並区)
夢の島公園(江東区)
環境学習情報館「えこっくる江東」(江東区)

日本循環紀行、前回の「江戸編」もどうぞ。