記事を読む

当メディアを運営する 株式会社サーキュラーエコノミードット東京のグループ会社である新井紙材株式会社は、1951年創業の古紙リサイクルの会社です。埼玉工場の一部を改装し、サーキュラーエコノミーの拠点を作るプロジェクトをこの2年ほど行ってきましたが、このたびリノベーションが完成し、6月12日(水)にオープニングイベントを開催します。

イベントについて詳細は、以下のお知らせをご覧ください。
https://circulareconomy.tokyo/column/474

この「美女木プロジェクト」の経緯を、これから数回に分けてご紹介していきます。

話:新井遼一(代表取締役) 聞き取り・文(村上瑞恵)

焼け野原のバラックから事業をスタート

創業者の新井清(左上)、創業地である麻布十番の家(右)

新井紙材の創業は1951年12月、私(新井遼一)の祖父・清が戦後の混乱期に港区麻布十番で古紙回収の仕事を始めたことからスタートしました。茨城から上京した祖父は当初三田の電気会社に勤めていましたが、その際に古紙ビジネスのチャンスを見いだし、独立したのです。

焼け野原が広がる中、バラックからスタートし、朝鮮特需やその後の高度経済成長とともに事業が拡大していきました。1973年には習志野市、続いて戸田市にも回収センターを構えるまでになりました。

当時は地方、とりわけ祖父の出身地である茨城から出てきて住み込みで働く社員も多く、戸田センターの2階は当初は社員寮として使われていました。そこがこのたび「サーキュラーBASE美女木」に生まれ変わることとなった場所です。

順調に進んだように見えた事業も、困難の時期がありました。紙を扱う事業は常に火事のリスクがあります。開業から5年後の1978年、そして1981年に相次いで放火に見舞われ工場が焼失したのです。

アルバムに残された火事の様子

静脈産業の視点から情報発信を開始

それだけではありません。日本経済の拡大とともに2007年をピークに国内の古紙回収量が右肩下がりに減り続けるという深刻な事態に直面することになりました。

私が3代目として後を継いだ時にはさらなる課題が山積みでした。デジタル化の進展や人口減少などにより、従来の古紙回収の事業モデルが成り立たなくなるという危機感。さらにはトラックの積載量規制や残業時間規制など、環境面での規制強化によりコスト増が避けられない状況になりました。

しかし、そんな中で希望もありました。地球規模での環境悪化に伴い、気候変動やSDGsなどのテーマが注目を集めています。私たちのようなリサイクルを行う仕事や廃棄物を回収し処理する仕事というのは、これまで以上に重要性が高まっていくのではないかと考えました。

廃棄物処理業界は歴史が長いこともあって非常に複雑な産業構造をしており、さらにマーケティングの概念や情報発信が乏しい業界でした。ここに突破口があるのではないか。静脈産業にスポットを当て、情報発信をしていこうと、2021年に「環境と人」(当メディアの前身)というWebメディアを立ち上げました。取材を通じて、多くの経営者や専門家に話を伺い、記事として掲載してきました。

そしてメディア事業を通じて、「サーキュラーエコノミー」に出合います。

廃棄をなくし、資源を循環させるサーキュラーエコノミーは、我々のような静脈産業のこれから目指す先なのではないか、と考えるようになりました。

たくさんの人にリサイクル現場を見てもらいたい

これまでWebメディアの運営のほか、「リサイクルの現場を見たい」という希望者の方に工場見学やリサイクルツアーを行ってきました。企業規模や業種関係なく関心をいただき、情報発信としての手応えもありました。古紙にはリサイクルしやすい紙とそうでない紙があり、そうでない紙はなぜそうなのか。現場で見るとその理由がわかるのです。

もっとたくさんの方に視察をしていただきたいのですが、弊社はお客さまを案内するには建物が古すぎ、設備も整っていません。

そこで、今回の「サーキュラーBASE美女木」のプロジェクトを立ち上げたのです。
工場の一部をリノベーションし、サーキュラーエコノミーの理念に基づく建築設計で造られた施設であるサーキュラーBASE美女木は、単なる見学施設にとどまらず、セミナーやワークショップの開催、ウェブメディアの発信拠点、コミュニティの活動拠点としての役割も担います。リアルな現場と最新の情報を組み合わせた体験を提供することで、循環型社会への理解を深めてもらいたいと考えています。

再利用可能な素材を使用し、施設が役目を終え解体するときの廃棄物も極力削減できるよう考慮した、サーキュラーエコノミー建築の具体的な取り組み内容については、次回の記事で詳しくご紹介します。