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この連載は、サーキュラーエコノミーの研究者で当メディア編集長の熊坂仁美が、海外取材をする中で発見した諸々の気づきをお届けするコラムです。

100年前、台南で行われた壮大なプロジェクト

年末年始、私は東北大学経済学部の台湾でのPBL(Project Based Learning:課題解決型学習)プログラムに参加しました。その一環として台南市の「烏山頭(うさんとう)ダム」を訪れ、約100年前、現地で活躍した日本人「八田與一(はった・よいち)」について詳しく知ることとなりました。

八田氏は「台湾で最も有名な日本人」「台湾のダムの父」「嘉南大圳(たいしゅう:大規模農業施設)の父」などたくさんの称号があります。もし当時「ガイアの夜明け」や「情熱大陸」などの番組があったら間違いなく取り上げられていたような、壮大なプロジェクトを行った人物なのです。

しかし残念なことに、名前で検索すると同姓同名で現在逃亡中のひき逃げ犯ばかり出てきます。歴史に残る立派な人物が、似ても似つかぬ逃亡犯と同じ名前で、その陰に隠れてしまっているのは残念な限りです。そのこともあり、少しでも多くの人に八田與一氏を知ってもらうため、その足跡をここに残したいと思います。

1935年、八田夫妻と8人の子どもの家族写真。與一氏はこのとき49歳(八田與一資料館より)

不毛地帯を一大農産地にした灌漑事業

台湾に着いた翌日の12月26日。私たちは日本のものとそっくりなことで知られる台湾の新幹線に1時間半ほど乗って、台北・桃園駅から台南・嘉義駅へ移動しました。そこからバスで烏山頭ダムに向かいます。これまで私は台湾に三回ほど訪れていますが、台南は初めて。暖かい台北より台南はさらに温度が高く、この日は26度まで上がりました。日差しも強く、南国に近い印象です。

烏山頭ダムの人工湖は遊覧船もあり、観光名所となっている。

観光名所の一つでもある烏山頭ダムは、15万ヘクタールを灌漑できる能力を持つアジア最大級のダムで、台湾の日本統治時代に10年の工事期間を経て1930年に完成しました。当時としては規模も予算も破格のプロジェクトだったこのダムを設計・主導したのが、当時33歳の日本人の土木技師・八田與一(1886-1942)でした。

この一帯は「嘉南平野」と呼ばれ、台湾最大の平原かつ農業地帯です。しかし、かつては降水が少なく、塩害や干ばつもあり作物が取れませんでした。八田技師はこの嘉南平野を調査し、「水さえあれば穀倉地になる」と判断して灌漑用ダムを計画、遠く離れた山から水を引き込み農業用水にし、それによって米やさとうきびが収穫できる豊かな土地に変えたのです。

その功績は台湾の教科書に記され、命日には今も毎年慰霊祭が行われるほど、台湾の人に感謝され続けています。これまでまったく知らなかった人物でしたが、現地では次々とエピソードが出てきます。八田與一ほど、日本と台湾での知名度や扱いが違う人物はいないのでは、と思うほどでした。

功績を記すため、まだ存命中に起立型の八田與一像を作る予定でしたが、それを八田氏が拒否、ダムを見下ろす烏山頭の丘で考え事をする八田技師の日常を模したものになりました。高い台もなく地面に直接設置されている、一風変わった像です。

八田與一氏像(八田與一文化芸術基金会ホームページより画像引用)

台湾が「親日」である理由

台湾は、かつて日本でした。日清戦争後の1895年から第二次世界大戦後の1945年までの50年間、日本の統治下にあったのです。日本統治が始まった当初は現地住民による反乱や暴動が多く発生したものの、欧米型の抑圧的な植民地政策とは異なり、インフラを整備し、道路、鉄道、港、病院、学校を建設した日本流の統治のやり方は、後の台湾発展の基礎を作るものとなりました。日本語教育も行われたため、今でも高齢の方は日本語が話せる方が多いのです。その後、蒋介石の国民党軍と中華民国が台湾の管轄権を行使するようになり、多くの日本時代の建造物が破壊されました。

台北市中山区の林森公園にある大小鳥居は、日本統治時代、軍人墓地に使われていたもの。小さい鳥居は国民党時代に破壊されたが、市民の記録として保存目的でそのまま移築された。

台湾は、親日の国として知られています。台湾の街を歩いたり、現地の人と接すると実際にそれを感じます。そのことは、統治時代からの両国の関係が良好であったことを何より物語っています。

私たち東北大のグループは、烏山頭で「財団法人 八田與一文化芸術基金会」の副執行長・徳光信誠氏に案内をしていただきました。徳光氏は、金沢の老舗旅館「加賀屋」系列の「加賀屋温泉飯店」(台北市)の総経理として働きつつ、八田與一の精神に感銘を受け、それを多くの人に伝えるため広報活動をされています。学生のグループということで、普段は入れないダムの管理棟なども案内していただき、八田技師が採用したダム技術や実績、台湾人を大切にしたエピソードなどをていねいに説明していただきました。徳光氏のお話と、参考サイトの内容を合わせて八田與一の足跡を辿ってみます。

学生たちに烏山頭ダムの説明をする徳光氏

「大風呂敷」を広げる若き八田技師

八田與一氏は1886年(明治19年)石川県金沢市の豪農の五男として生まれました。地元の高校から東京帝国大学(現東京大学)土木科に進みます。そこで、海外で土木を学び小樽港を設計した廣井勇教授と出会い、徹底的に海外の土木技術をたたき込まれます。「大風呂敷の八田」といわれるほど、スケールが大きい発想を持ち、さらに最新の土木技術を学んだ八田氏に、廣井教授は外地へ行くことを勧めます。

「八田のような大風呂敷を広げられる人間は、内地に居ては狭量な役人に疎んぜられる」と外地への就職を勧めたのも廣井教授であった。当時、日本が領有していた台湾や朝鮮、それに樺太などは、これから開発が期待される土木の新天地であった。そこで八田は、台湾を選んだのである。八田の人間形成は、真宗王国加賀の「仏の前ではみな平等」という親鸞の教えや西田哲学、それに「橋を架けるなら、人が安心して渡れる橋を架けよ」と指導した廣井の影響が大きかったはずである。

不毛の大地を台湾最大の緑地に変えた土木技師 (古川勝三)
https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/kikan_60_hurukawa.html

八田氏は台湾総督府の土木課に就職し、台湾での生活が始まります。そこで早くもいくつかの実績を上げ、台湾南部の嘉南平野の広大な不毛地帯の調査を命じられます。当時の日本は米不足で米価が高騰しており、植民地台湾での米の生産が期待されていたのです。

八田技師はそこで、10数万ヘクタールの大平原が水田として大きな潜在力を秘めていることに気づきます。そして最新式の技術を備えたダムを設計します。設計図は300枚にもおよぶものでした。さらに、予算は当時の台湾総督府の歳入額に相当する総工事費(4200万円)を提出。その壮大さに、技師全員が我が目を疑います。「大風呂敷の八田」がその真骨頂を発揮したのです。

局長以下、ほとんどの技師が質問を終え、静寂が会議室を包んだ。下村長官がおもむろに口を開いた。「この規模の工事は、内地にはあるのか?内地に無いとすれば、巨大工事を2つも台湾でやるのは愉快じゃないか」。この言葉に、今度は土木局全技師が我が耳を疑った。「日月潭水力発電工事」と「官田渓埤圳新設工事」という巨大工事を土木局が1度に背負い込むことになるのである。「金のことは何とかする。工事をするからには、必ず成功させてくれ。八田技師頼んだよ。ところでダムの人造湖はまるで堰堤に生えた珊瑚樹そっくりだな。北の日月潭に南の珊瑚潭というのはどうだろう」。

不毛の大地を台湾最大の緑地に変えた土木技師 (古川勝三)
https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/kikan_60_hurukawa.html

八田氏の大風呂敷の計画もそうですが、「金のことは何とかする」とそれを了承した局長の度量の大きさにも驚きます。誰もやったことがない、途方もない計画。失敗すれば大きな責任問題となる案件のはずです。にもかかわらず、この若い技師を信じて決断したことは、今の日本ではあり得ないかもしれません。結果としてこのプロジェクトは大きな成果を生み出すことになりますが、ここでの上長の英断がなければ、少なくともこのタイミングでは烏山頭ダムは誕生しなかったわけです。

かくして、八田技師の指揮の下、烏山頭ダムと総延長1万6,000kmにおよぶ水路の建設が始まりました。しかしそれからは順調とはいえず、ダム建設中には、爆発事故や関東大震災による予算削減など、予期せぬ困難に次々に直面しますが、それらを乗り越えて工事を継続し、10年かかってようやくダムは完成しました。

5月10日には竣工式が行われ、ダムの放水門から激流になって流れ出た水が、1万6,000kmの給排水路になだれ込んだ。水路を流れくる水を目にした農民は、信じられない思いで叫んだ。「神の水だ。神が与えてくれた恵みの水だ」。この時から、八田は「嘉南大圳の父」として嘉南40万の農民から慕われ尊敬されるようになる。神の水がすべての水路に行き渡るのに3日間を要した。その3日間、烏山頭では3,600人近い日本人や台湾人の従業員による祝賀会が続いた。世紀の大事業は終わった。

不毛の大地を台湾最大の緑地に変えた土木技師 (古川勝三)
https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/kikan_60_hurukawa.html

「神の水」。当時同様に手動で水門を開けていただき、私たちは放水門で実際に放水の様子を見ることができました。開けると同時に流れる水は激流というべきもので、すごい迫力です。広い大地にとてつもない量の水を供給して潤す、まさに神の水を生み出す装置であることが実感できました。

水門操作の様子
水門を開けると大きな音を立てて大量の水が流れ出す
資料館には当時の写真が多数展示されている
維持管理しながら現在も使用されている用水道を見学

この灌漑事業によって、嘉南の米とサトウキビの生産量を大幅に向上させることになり、米も砂糖も日本内地へ大量に移入されるようになりました。その結果、嘉南地区40万の農民が経済的に豊かになり、さらに、二束三文だった土地が高騰し「台南では街の人より農民の方が豊か」という逆転現象まで生み出したのです。

今なお持続する台湾南部の農業の基礎を作った八田技師。その業績も偉大ですが、恩を忘れず、毎年慰霊祭にたくさんの人が集まる台湾人の義理堅さも素晴らしいと思いました。

「仏の前ではみな平等」を実践

八田氏が愛された理由は仕事の功績だけでなく、そのやり方です。台湾人と日本人を分け隔てなく扱い、「1000人を超える職員の健康と、安心して働ける環境なくして大きな仕事はできない」という考えで、労働者とその家族のために村を作り、宿舎や学校、病院を整備し、労働者の生活を豊かにしました。さらに部下の待遇に心を配り、退職者の再就職にも尽力します。

また、土地を三区に分け、作物の時期によって水供給をローテーションする灌漑の仕組み「三年輪作給水法」を提案し、ひとつの地域だけに水が集中して富に偏りが出ないように気を配りました。若き日に影響を受けたという親鸞の教え「仏の前ではみな平等」を徹底して実践したのです。

そんな人格者の八田氏ですが、残念ながら非業の死ともいえる最期を迎えます。第二次世界大戦中の1942年、陸軍の命でフィリピンの灌漑工事調査のため、部下とともに広島から出港した八田氏は、その3日後、五島列島付近でアメリカ海軍に撃沈され、56歳の生涯の幕を閉じました。

八田氏の遺体は対馬海流に乗って山口県萩市沖に漂着し、萩の漁師によって引き揚げられたと伝えられています。大仕事をなし得たものの、家族を残し、まだまだその力を活かせる年齢で命を絶たれ、さぞや無念だったに違いありません。台湾に永住を決めていたため、お墓は烏山頭の銅像の奥に建てられました。

八田與一氏の墓前と銅像に献花を行う東北大学の学生代表

悲劇は続きます。八田家は、同じ金沢出身の妻の外代樹(とよき)さんと8人の子どもがいました。八田氏の死から3年後の1945年、終戦の年。妻の外代樹さんも後を追うように烏山頭ダムに身を投げるのです。長男が戦地から戻り、家族で食卓を囲んだ翌日の出来事でした。

16歳で金沢からまったく環境の違う台湾に嫁ぎ、8人の子育てをしながら、ダムで働く人々の世話もしたという外代樹さん。その苦労は察して余りあります。八田氏が「安心して働ける環境無くして大きな仕事はできない」と言っていたように、八田氏のあれだけの大きな仕事は、外代樹さんの支えなしでは成し遂げられなかったことは確かでしょう。

八田家を再現した家(八田與一記念公園内)の庭に建てられた外代樹像

スケールの大きさと圧倒的な知識

案内役の徳光さんがバスの中でこんなことをおっしゃっていました。

「自分がいま死んだとして、葬式に来てくれる人はおそらく50人ぐらいでしょう。でも與一さんは、毎年慰霊祭があり、これまで何千人、何万人が来てくれている。その数の違いは、どれだけの人に影響を与える仕事をしたかどうかということです」

話を聞いていた20代の若い学生たちより遙かに「葬式」に近い私は、この言葉はぐさりと突き刺さりました。いま、一日の大半の時間を仕事に費やしていますが、その仕事は果たしてどれぐらいの人を幸せにするものなのか。不毛の地を農業地帯に変え、今も続く経済効果を生み出した八田氏とは、もちろん比べるべくもありませんが、それにしても、未だに目の前のことで精いっぱいの自分の小ささに恥じ入るばかりです。

そしてその仕事を可能にしたのが「知識」です。八田氏が東京帝国大学時代、廣井勇教授のもとで学んだ土木技術がなければ、この難事業はなし得なかったのです。

たとえばダムの堰堤の構築には、土砂とコンクリートを組み合わせて堤体を構築する「セミ・ハイドロリック(半射水式)工法」が採用されています。台湾は地震が多いため、崩れた際の修復を考慮し、セメントをわずか0.5%しか使っていないそうです。堤防というとコンクリートで固められたものが思い浮かびますが、ここはまるで手つかずの川の土手のようです。圧倒的な知識の裏付けがあるからこそ、土地の条件に合わせた、持続可能な工法を発案できたのでしょう。

セミ・ハイドロリック工法で作られたダムの堰堤。セメントはわずかのため、地震で崩れても修復がしやすい。

知識は大きな力であり、使い方によって多くの人を救い、幸せにすることができる。八田氏からは「学ぶことの価値」を改めて教えていただきました。

八田氏のようなスケールの大きな仕事は自分にはできないけれど、「学ぶ」ことはまだまだできる。そのために大学院まで来ました。でもその学びを、今の自分の持ち場で、より多くの人の役に立てるには、いったいどうしたら、何をしたらいいのだろうか。

烏山頭の丘で今も自分が造ったダムを眺め続ける八田與一氏から、大きな宿題をもらいました。


財団法人 八田文化藝術基金
https://www.hattayoichi.org.tw/

参考記事
IPDefenseForum.com「台湾が中国の一部だったことはあったか?
台湾光華雑誌「台湾人と日本人の心に刻まれた八田與一の業績と人となり
季刊大林「不毛の大地を台湾最大の緑地に変えた土木技師